ごはんの湯気が読んでくれる
炊きあがった鍋から立ちのぼる湯気が、その日の湿度を作り手に読み返してくれる話。家のなかでいちばん静かな天気予報は、でんぷんの言葉で書かれている。
ごはんの鍋の蓋を、開けてはいけないと言われる蓋を、私はそっと持ち上げて、立ちのぼってきた湯気の柱のなかにしばらく立っている。鍋は火を落としてからもう二分ほど経っていて、いまは年配の料理人たちが蒸らしと呼ぶ、残熱が炎の続きを引き受けている時間だ。蓋を開けてからまだ三秒くらいしか経っていない。私はここでかき混ぜに来たのではない。湯気を読みに来ている。柱はコンロの上の冷えた空気に向かって立ちのぼり、胸の高さあたりで崩れて散る。一緒に上がってくる匂いは、この時期だと、わずかに青っぽくて、ほのかに乳のような甘さが背景にある、と書きたくなる種類のものだ。一秒だけ目を閉じて、今日の柱がどんなふうにふるまっているか取り込もうとする。今日の柱のふるまいは、私が信じるようになったところでは、この家のどんな計器より正直な天気予報だからだ。
物理を平らな言葉に直して言えば、たぶんこういうことだ。湯気は、鍋の中の米のでんぷんを介して、台所の空気の飽和の具合を私に読み返してくれている。米は鍋の中で、私が与えた水のほとんどを取り込んでいる。残っているのは底のごく薄い水の膜と、ひとつぶひとつぶの中に膨らんで詰まっているでんぷんの粒だ。蓋を持ち上げた瞬間、鍋の中の湿り気が部屋の空気と出会う。部屋が乾いていれば柱は高く上がり、高い位置で崩れる。空気は嬉々として湿り気を上へ外へ引いていき、柱は澄んだ、均一な匂いを発する。部屋が湿っていれば柱は短く密で、上昇というよりむしろ自分のなかへ落ち戻っているように見える。空気がすでに満ちかけていて、新しい湿り気をしぶしぶ受け取るからだ。匂いは遅れて上がり、鍋の近くに留まる。物理を完璧に言い当てるつもりはない — 数値で示そうとしたら、たぶん私は当て推量になる — けれど、柱の高さと部屋の飽和具合の関係は、この台所で何年も見てきたパターンで、いまのところ私を裏切ったことはない。
私が見ている合図は、柱の高さそのものではない。蓋を持ち上げてからの最初の八秒か十秒のあいだに、柱がどう変化していくか、そのほうだ。乾いた日には柱はすばやく立ち上がり、三秒ほどで頂点に達したあと、安定して薄くなりはじめる。下の米はもう表面の湿り気を渡し終えていて、柱は無に向かって減衰していく。湿った日には柱の上昇はゆっくりで、頂点も低く、そこで何秒か頭打ちになってからやっと薄くなる。米と部屋が同じ湿り気の枠をめぐって交渉していて、その交渉に時間がかかる、という感じだ。最初の信号は、炊くより前から台所がどれくらいの湿気を抱えていたかを教える。二つ目の信号は、ごはんがこのあと茶碗のなかでどれくらい湿り気を返していくかを教える。十分後、二十分後、よそって少し置かれているあいだの話だ。湿った日には、空気が乾いた日のように水分を引いてくれないので、ごはんは茶碗のなかでしっとりめに残る。乾いた日には、米の表面の湿り気が数分で部屋に逃げていくから、口当たりが、しっとりからわずかに粉っぽいほうへ寄っていく前に食べたほうがいい。
これが大事だと思うのは、家で炊くごはんについて私がいちばんよく聞く不満が、生焼けでも炊きすぎでもなく、「なぜか日によって違う、レシピは変えていないのに」というものだからだ。同じグラム数の米、同じミリリットルの水、同じ鍋。それでも水曜日の茶碗のごはんは、月曜の茶碗のごはんより、わずかにねっとりしている。これは作り手の失敗でも米の失敗でもないと私は思っている。これは部屋が料理に自分の名前を書きこんでいるのだ。茶碗のごはんは、いろいろなもののひとつとして、米とそのまわりの空気とのあいだで起きている湿気のやり取りでもあって、空気のことを知らない作り手は、空気の気分のままに振り回される。蓋を開けた瞬間に湯気を読む作り手は、茶碗にごはんが入る前から、茶碗がこのあとどうふるまうかをすでに知っていることになる。
注釈は言っておくべきだ。一番大事なのは、ごはんの湯気は精密な計器ではないということ。粗い目安であって、その日のほかのこととクロスチェックしてはじめて意味を持つ。窓が開いていたか、すぐ近くで別のものを蒸していたか、ヤカンがかかっていたか、朝の洗濯物がまだ干されたままなのか、もう畳まれたのか。どれも台所の局所的な飽和具合を動かして、読みを乱す。二つ目の注釈は、米そのものも読みに加わる、ということだ。新米のほうが密で甘い柱を出し、戸棚の奥にあった古めの米のほうが薄い柱を出す。米自身が出している湿り気を、部屋の湿り気と取り違えないこと。三つ目の注釈は、私が読み分けられるのは短粒種、いわゆるうるち米の湯気だけだ、ということだ。友人の台所で長粒種の柱を見たことがあるけれど、ふるまいが違った — 乾いた感じで、柱が小さく、減りが早い — から、この規則がそのまま種を越えて通じるとは言わない。ただ原則は変わらない。湯気は、この日のこの瞬間の、空気と米と、両者の関係について何かを教えている。
これに気を向けてこなかった人にひとつだけ言うとすれば、蒸らしの終わりに、一度だけ、必ず一度だけ蓋を持ち上げて、柱を十くらい数える間じっと見る習慣をつくってほしい、ということだ。まだ混ぜない。まだしゃもじに手を伸ばさない。そこに立っているだけ。雨の日、乾いた日、真冬の冷えた乾いた日、梅雨の重い湿った日 — 一か月いろんな日にこれを続けると、柱が小さな予報のように感じられてきて、作り手の手はだれにも言われずに調整しはじめる。明日の鍋の水加減が、昨日のそれと数ミリリットルちがう。なぜちがうのか、はっきり説明はできないけれど、湯気がそう言った、としか言えない。
柱はいま薄くなって、細い一本の線になりつつあって、開けた窓のほうへゆっくり流れていく。匂いは変わった — 青さは後ろへ退いていて、残っているのは、休んでいる加熱されたでんぷんの、温かくてわずかに乳のような香りだ。私は蓋をもう一度かぶせて、最後のひと分だけ余熱を抱かせ、小さな木のしゃもじを壁のフックから取って、台のうえの茶碗のほうへ体を向ける。ごはんは仕上がっている。今日の台所は、その天気の幅のちょうど真ん中あたり — 乾いてもいないし重くもない — で、茶碗は食べきるあいだもち応える。これをレシピから読み取ることはできなかっただろう。鍋が教えてくれた。
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味、発酵、料理の歴史 —— 週次の短いノート。
