包丁の重みが落ちる場所
刃が自重で玉ねぎを落ちていく、その重心の位置。手は押すためではなく、誘うためにある。
まな板の前にいて、長く使ってきた包丁と玉ねぎがある。玉ねぎは半割りで、切り面を下にして据えてあり、根元から一センチほどのところに刃を当てている。柄を握る手はいつもの通り。指は峰の根元あたりにゆるく回り、親指は側面に添えられ、手首は力が抜けている。刃を押し下げない。腕に意図的な力もかけない。ただ、刃の重さを玉ねぎの上に置いておくだけ。その次の瞬間、刃は玉ねぎを抜けてまな板に当たっていて、刃が通った場所には薄い玉ねぎの切片が一枚残っている。私は何もしていない。仕事は刃がした。手は、刃が走るレールだった。これが、よく切れる包丁の使い方のなかでいちばん長く時間がかかって覚えたところだ。── 料理人は切るために刃を持ち上げるのではなく、切るために刃を下ろす。切るというのは、刃と重力と玉ねぎが、正しい角度で出会った結果として起きる。
刃の幾何学を厳密に説明できるとは言わない。包丁を使い、研いできた経験のなかでいちばんもっともらしい推量は、刃のベベル ── 側面が刃線と出会う薄い角度 ── でいま起きているのは、ゆるい「楔打ち」のようなものだということだ。刃のいちばん先端は、玉ねぎの細胞を、「薄いから」だけで分けているのではない。「薄いものを、刃の残りが正確な角度で前方に押し続けているから」、分けているのだ。角度が正しくて、刃線が損なわれていなければ、ほとんど力は要らない。楔が楔を打ち、料理人の仕事はせいぜい、刃をそれが進んでいた方向に進ませ続けることくらいだ。刃が鈍ってくると、その角度は楔ではなくなり、丸い肩のようなものになる。料理人は同じ「分離」のためにいま、押さなければならなくなる。その押しが、鈍い包丁が要求してくる仕事だ。鈍い包丁を研ぐべき理由は、危険だからというのも本当だが、本当はもっと根本的で、── 鈍い包丁は手に間違ったレッスンを教えているからだ。研いだ包丁は、自分の本来の仕事を手に思い出させる。
転機は重さにある。よく切れる包丁は、刃線そのもののあたりに重心を見つけるもの ── という言い方を、自分のなかでするようになった。刃線が食材に触れた瞬間、刃線の上にある質量が、その包丁では切るのにちょうど必要な質量になる、という意味で。長く使ってきた三徳は、手のなかでは、小さな、おもりのついた線のように感じる ── 重心は刃の中央で、刃線の少し上にあり、玉ねぎに据えたとき、その重さの線が腕の入力なしに切片に落ちていく。重めの西洋シェフナイフは違う感じがする。重さは後方寄り、ボルスターの中にあって、まっすぐ落とすより、少し前に揺らす動作のほうが、刃を前方へ回転させたがる重い元部分の意図に沿う。菜切りはいちばんきれいな例だと思う。刃の長さに重さがほぼ均等に分散しているので、切る動作はほとんど純粋な「落ちる」動作で、シェフナイフに慣れている料理人が菜切りに持ち替えると、自分が刃の要求以上のことをやってきたことに突然気づく。どれも「正しい」「間違っている」の話ではない。重さの幾何学が違うだけだ。手は包丁ごとに重心がどこにあるかを覚えて、刃をその点に向かって落としてやるようになる。
これが大事なのは、家庭でも、私が訪ねるどの厨房でも、ほぼ毎回見かける失敗 ── 自分も疲れているときには時々やる失敗 ── が、ここに集まっているからだ。「押し」だ。料理人は包丁を持ち ── 切れる包丁のときもあるし、もう少し切れない包丁のときも多い ── 腕と肩の力で刃を玉ねぎに押し通している。玉ねぎは多かれ少なかれ切れて、切片はばらつきが出て、料理人はその分早く疲れて、指先を切るのはたいてい、押しの最後に抵抗が突然なくなって刃が滑った瞬間だ。問題は、料理人が弱いとか不注意だとかではない。料理人が、刃の重さを信頼することを学んでいないということだ。柔らかい野菜なら、刃はほとんど全部の仕事ができる。少し堅い野菜でも、刃はほとんどの仕事ができる。手が押すのは、料理人が刃に望まれていない仕事をさせているときだけ ── 堅い南瓜を割る、鶏の骨をたたき切る ── そして、そういうときは料理人は別の刃物を使うべきだ。別の包丁、出刃、菜刀、あるいは別の動作。日常の野菜仕事は重力の仕事で、刃の重さを「手のなかに感じている」料理人は、切片が揃い、一時間後も前腕が痛まず、指先も無事のままで仕事を終える。
注釈はあって、言っておくべきだろう。すべての包丁が「落ちる」ようにできているわけではない。ボルスターのない薄いシェフナイフで柄も軽いものは、刃を「落とす」道具というよりは「導く」道具に近い。切片はちゃんとできるが、重さの占めるぶんが小さくて、手がもう少し導きを供給する必要がある。中華包丁、特に何にでも使う本式の重いものは、刃にあまりに多くの重さがあるので、料理人は「足す」のではなく「受け止める」ことを覚えなければいけない。切るのはほぼ制御された「落下」で、仕事は刃を行き過ぎさせないことのほうだ。ごく小さなペティナイフは、重さがほとんどない。あれはほとんど手の道具で、切る仕事は指でやっていて、刃は刃線を供給しているだけだ。重さの議論はそこにはあまり当てはまらない。包丁の話とは別に、まな板も大事だ。硬い切断面 ── ガラス、大理石、セラミック ── は数切りのうちに刃線を駄目にして、重さの会話を一分以内に台無しにしてしまう。木やエンドグレインのまな板は、刃線を刃線のまま保ち、落ちる切りはそのまま落ち続ける。どれもこの原則を壊さない。切るのは刃の仕事で、手の仕事は、刃を正しい場所に置いておくことだ。
玉ねぎを切り終える。切片は揃っている ── 刃が均等に落ちていったからだ。前腕は疲れていない ── 大した仕事を要求していないからだ。包丁はまな板の上、安全のために刃を下に向けて置かれ、私の手のひらの基底部は、力の入っていない柄に触れている。まな板の縁の布巾で刃を拭い、次の玉ねぎにまた据え、重さに切片を見つけさせる。包丁仕事はだいたい、こういうことだ。戦いでもなく、見せ場でもない。これは、年々、手が少しずつ仕事を減らしていく訓練で、最後に手に残るのは ── 包丁を正しい角度で据えて、それ以外のすべてを手放すことだ。
新着エッセイをメールで受け取る
味、発酵、料理の歴史 —— 週次の短いノート。
